|
カテゴリ
以前の記事
2010年 02月
2009年 12月 2009年 11月 2009年 06月 2008年 12月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2006年 11月 2006年 09月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 お気に入りブログ
最新のコメント
最新のトラックバック
ライフログ
検索
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
![]() OKADA Takuya Exhibition 展示会期|2006年11月20日 [月]―25日[土] 開場時間|11:30a.m.―6:30p.m.[最終日5:30p.m.] 会場|ギャラリーなつかb.p 岡田卓也インタヴュー 今回の作品は「星座」がモチーフになっていると聞きました。しかし一見してわかるように、これらの絵画はいわゆる星座を写実したものではありません。岡田さんの考える「星座」とはどのようなものか、お話いただけますか。 最近だと冥王星が惑星の定義から外れたというニュースがありましたが、私たちの宇宙の定義というのはそれ自体が不確定なものです。そのなかでも星座は、何の確証性も持たないまま数千年維持されてきた体系ですね。誰もが星座の体系に根拠がないことは承知していますが、確かに星空を見上げると、カシオペヤ座やオリオン座が星座として浮かび上がってくる。これは私たちがそう見ようとするから星座に見えるのか、それとも星自体による分節がそう見させているのか、非常に曖昧です。星空を見上げた時にはまず、一種の眩暈を覚えるだろうと思います。一種の混乱から次第に形が形成される。これは星座に限らず全ての現象がそうなのですが、星座は特に特有の視覚体験を伴う。そこがまずおもしろいと思います。 次に星座と絵画を比較したとき、近い部分があります。星座というのは通常、平面的に表されます。白鳥座の十字やカシオペヤ座のW形、こぐま座のひしゃく形というように。けれどもそれらは天球平面上に、より正確には視覚平面上に圧縮した形で表現されたものですね。実際には星座を構成する星と星の間には奥行きがあり、それは無限に広がっています。一方絵画では、制作上のプロセスがいくつも入り組んで完成に至ります。見る人には圧縮された形で画面として見えますが、より詳しく見ていけば、そこには単一の画面に還元できない多様な徴候が見てとれるでしょう。星座も絵画も一般的には平面的に捉えられますが、その実、無限の広がりを持っています。 まず光の散乱がどうして形に見えるのか、私たちがそう見るから見えるのか?それともそれがそう見させるのか?という問題がありました。これは主/客という分節を構成する視覚のあり方の問題だと思うのですが、それについてどうお考えですか。 そもそも視覚自体が、それによって対象を占有するという能動的な側面と、見ているだけで手出しはできないという受動的な側面の両義的な性質を持っています。かつての絵画論では"見る"ことで世界を所有する「主体」を設定するというモデルが一般的でした。遠近法も共同体としての「象徴形式」であるという考え方ですね。一方で最近では「アフォーダンス」※という考え方が台頭してきました。アフォーダンスは、モノと主体の双方を"見る"という行為から分節するという考え方です。前者がモノを主体に従属させる自己保存的な立場だとすれば、後者はモノが主体を指示づける自己形成的な立場です。 例えば「この絵の前に立ったらこう見なさい」というコンベンションは、美術を巡る制度や社会的なポジションによって外から与えられるだけのものではありません。むしろ絵画それ自体が、視覚のコンベンションを作るひとつの有力な装置でした。かつて絵画が強固な(先取りされた)見る主体を維持してきたことを考えると、"見る"ことで新たに主体とモノとを分節するアフォーダンスの考え方は今日的な絵画を考える上で重要だと思います。 次に星座と絵画の奥行きについて先ほどのお話をまとめると、形が認識される背景には、星座には奥行きが、絵画にはプロセスがある。単純にそういうことですか。 私が言いたかったのは、星座であれ、絵画であれ、形が認識される背景には潜在的な空間があるということです。先ほどの(主/客を分節する視覚の)話につなげれば、ロザリンド・クラウスは「見る衝動/見させるパルス」※で、このような視覚を構成する潜在空間をマトリクスと呼びました。星座は安定した形があるように見えますが、この光は一万年前の光、あの光は数百万年前の光というように、個々の光は全く違う時間を生きています。星座がおもしろいのは、星と星の間には物理的な距離があるのではなく、時間的な距離があるというところです。それぞれの光が存在している時間が違うのですから、その空間を簡単に総合することはできません。まさに「共存不可能なものが一つのブロックを形成している」※マトリクスだと言うことができます。 同様に絵画もまた複数の時間を生きています。最終的に一枚の画面に仕上がるように作者は作品を総合しますが、それぞれのプロセスは作者の意志とは関係なく、それぞれの枠組みを指示します。プロセスの集積が単純に画面を充足させるわけではないことは、絵を描いたことがある人ならご存知でしょう。セザンヌのように、塗り残しが作品を仕上げることもあります。絵画も星座と同様に、複数の時間の切断面なのです。 (つづきは、会場配布のリーフレットをご参照ください。ご来場をお待ちしております。)
四谷アート・ステュディウム研究員 森本英裕くんからのお知らせ。
■タイトル Critical Olympics 01 [批評のオリンピック]四谷アート・ステュディウム公開セッション Prime Object プライムオブジェクト――歴史を通り抜ける事物たちの思考 ■日時 2006年9月19 日[火]・20日[水]18:00-21:00(17:30開場) ■会場 国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟4階セミナーホール ■パネリスト 岡崎乾二郎 中谷礼仁 松浦寿夫 岡田温司 田中純 浅田彰 郡司ペギオ幸夫 (各日パネリストが異なります) ■申し込み・問い合わせ/前売チケット取扱 近畿大学国際人文科学研究所 東京コミュニティカレッジ 四谷アート・ステュディウム ●事前の申し込みが必要です。(電話受付のみ) tel. 03-3351-0591(9:30-16:00、日曜・祭日 休) ■url:http://artstudium.org/2006/session/ ■定員:各日300名(要事前申し込み) ■参加費: 1日券[前売]1000円/[当日]1500円 2日券[前売]1500円/[当日]2500円 ■企画:四谷アート・ステュディウム ■主催:近畿大学国際人文科学研究所 ■パネリスト ●9月19 日[火] 岡崎乾二郎、中谷礼仁、松浦寿夫、岡田温司、田中純、浅田彰 ●9月20日[水] 岡崎乾二郎、中谷礼仁、松浦寿夫、郡司ペギオ幸夫 「近畿大学国際人文科学研究所、四谷アート・ステュディウム公開批評セッションの第一回として、『プライムオブジェクト――歴通り抜ける事物たちの思考』を開催します。 プライムオブジェクトとはこの秋に待望の翻訳刊行が予定されている美術史家ジョージ・クブラー『時のかたち』(George Kubler, "The Shape of Time", 1962)の基本概念です。 クブラーは、人間の制作した事物がそれぞれ規範として自律した体系を組織していくという、その独特の思想によって、一元的に閉塞した美術史および文化論の枠組みを大きく乗り超える道を開きました。しかしクブラーの思想が正確に受け継がれてきたとは必ずしもいえません。むしろ20世紀後半から21世紀にかけて、文化はますます一元化へと加速しつつあると見なされ、批評もそれに伴走し無力化していると言われています。 しかし事物の生産過程は決して一元化されることはない。クブラーにはこうした徹底した技術的な視点がありました。事物の生産を司るのは、事物それ自体である。事物はそれぞれが一つの法である。批評の可能性 は、このさまざまにあり得る生産過程に立ち返ることで確実に取り戻されるはずです。 G.クブラー『時のかたち』とほぼ同時期に出版されたE.H.ゴンブリッチ『芸術と幻影』、C.グリンバーグ『芸術と文化』、トーマス・クーン『科学革命の構造』、レヴィ・ストロース『野生の思考』などと共に再読し、今日の批評的膠着をもたらしたパラダイムを解体し、多数性へと再構築を試みるセッション。」 文化の多様性というのは、複数の地域・複数の事物がリテラルにあると誤解してしまうことで、多様な文化を束ねる受け皿としてのマルチ・カルチュラリスムに簡単に回収されてしまう。むしろ一つの地域・一つの事物に複数の動線が張り巡らされている感性をこそ、大切にしたい。 ジョージ・クブラー『時のかたち』刊行を前に、貴重な批評セッションの機会です。ふるって参加ください。
古本屋で1993年宝島社出版のハードカバー『TOKYO TRIBE』を100円で購入。
個人的に僕を知っている人なら、『TOKYO TRIBE』で岡田くんと聞けばちょっとピンとくるに違いない。まあ、そういうわけでひまつぶしに買ってみた。 最近、村上隆『芸術起業論』を読んだせいもあって、気分はすっかり90年代。それで『TOKYO TRIBE』に手が伸びた次第である。ここで閑話休題、『芸術起業論』から言葉を拾ってみる。 「みんながひそかに「誰かがやらないかなぁ」と思っていることは既に正解が出ているのですからそこに進めばいいはずです。」(p.53)「娯楽に麻痺した現代人の感覚を揺さぶる一発を打ちこむにはよほどの能力が要ります。「この快感は、どこで仕入れているんだろ?ここにしかないよ!」そういう一撃を食らわせるのが芸術なのですが、これはなかなか難しいことです。」(p.59) 「閃きの純度を高くキープする。自分でやるとなると自分でできるレベルまで閃きのレベルを落とさなければならなかったりしますから。発注したりアシスタントを養成したりしていると、自分ではできない閃きをあきらめなくてもよい。あきらめないで純度の高いものをひろえるチャンスを手に入れられるのです。」(p.101) ムラカミの功罪はさておき、なかなか参考になることが書いてある。特に三番目、「自分でできるレベルまで閃きのレベルを落と」してしまっていることありませんか?知らず知らずのうちに作品に自分の与件が反映されてしまっている。その解決法が何も「集団」である必要はないけれども、そのことに自覚的でなければ突破できないのも確か。良くも悪くもムラカミは、自分の作品の可能性を客観的に洗うことに意識的な作家であることは間違いない。 ブルセラ・ギャング・カルトと、90年代真っ只中に書かれた読みきりだけあって、『TOKYO TRIBE』はもはや「昔懐かし」の匂い。思えば90年代末には「エヴァンゲリオン」あり、上記の「スーパーフラット」あり、鬱屈とした気分が覆っていたものだが、蓋を開ければ2000年代は、ずいぶんとすっきりしてしまったものである。かつての無法地帯、歌舞伎町もきれいに整備されてしまった。その間「ゼロゼロジェネレーション」の作家たちは、薄っぺらい浮遊したイメージを重ね、今や停滞している。 あの90年代に戻りたいかと言われれば、虫唾が走る思いだが、しかし荒削りな『TOKYO TRIBE』や90年代の申し子であるムラカミの言葉に耳を傾けると、「娯楽に麻痺した現代人の感覚を揺さぶる一発を打ちこむ」という気概を持って制作している作家が少なくなってしまったなぁと憂えてしまう。 さあ、僕だけはがんばっていこう! というわけで、しばらくお休みしていましたが、これからも本ブログをよろしくお願いいたします。
オーストラリア戦、クロアチア戦と猛暑の中で取れるべき勝ち点を取れなかった日本。ジーコの采配、中田英と国内組の確執などメディアでは連日様々な敗因を伝えている。しかし今日の朝日新聞朝刊で無視できない「新たな敗因」が報じられた。
朝日新聞「「W」の物語 TVを考慮 真昼に―日本の2戦、当初はナイターだった―」 「サッカーW杯ドイツ大会で16強入りを逃した日本代表。1次リーグ3試合のうち2試合が日本では夜10時開始だったため、テレビの生中継を見ながら多くの人が声援を送った。しかし、7時間遅れのドイツはまだ暑い時間帯。組み合わせ抽選の際、日本でのテレビ放映時間を考慮して夜から昼に試合時間が変更されていた。その結果、日本代表は酷暑での戦いを2度強いられた。 (・・・)中田英寿は試合後、「お互い条件は同じ」と暑さを言い訳にしなかったが、日程を見ると公平とは言い難い実態も浮かび上がる。(・・・)参加32チームのうち、午後3時からの試合を戦ったのは17チーム。うち2戦とも午後3時だったのは日本、トーゴ、セルビア・モンテネグロの3チームだけだ。日本は3戦目まで16強入りの望みをつないだが、他の2チームは連敗して早々に敗退が決まった。 (・・・)1次リーグの組み合わせは昨年12月9日に抽選で決まり、翌10日に国際サッカー連盟(FIFA)が各試合の開始時間を発表。日本の2戦目までの日程は当初、豪州戦が12日午後9時、クロアチア戦が18日午後6時だったが、FIFAは「テレビ放送の時差を考慮した」として、ともに午後3時に変化した。(・・・)02年日韓大会で日本組織委員会の放送業務局長を務めたスポーツプロデューサーの杉山茂さんは「FIFAは放送局の意向を重視する。放送権者は自分の国の時差を考えて試合時間を要望できる」と打ち明ける。スポーツビジネスに詳しいジャーナリストの谷口源太郎さんは「NHKと民法でつくるジャパンコンソーシアムが支払ったとされる140億円の放送権料はアジアで突出している。それでFIFAのビジネスも成り立っている」と話す。」(6月25日朝刊 38面) 記事によれば、豪州戦を生中継したNHKもクロアチア戦を生中継したテレビ朝日も「試合時間を交渉した事実はない」としている。一方で放送販売権の国内代理店の電通は「放送局側の意向を伝えたとしても聞き入れるかどうかはFIFA側の判断」と言葉を濁す。 livedoorニュース PJオピニオン「明確な中田英のゲーム分析と、お粗末なテレビ番組解説」 「試合前日の中田英選手もゲーム戦術はともかく「勝つという結果以外にはこだわらない」というようなコメントを残していたせいか、テレビのリポーターも「とにかく90分間集中すること」「絶対に勝つという気持ちで戦う」などのコメントが多く、勝つためにどのようなプレーや戦術に集中するのかの解説に欠け、精神論中心でサッカーのおもしろみが伝わってこなかった。」(※) 日本の敗因を追求するメディアだが、果たして試合前はどうだったか?冷静な分析はさておいて「絶対に勝たなければならない」とするメッセージを煽っていたのが実態だ。この単調なメッセージは視聴率のアップには多いに貢献したが、一方で朝日新聞の記事が事実であれば、その「絶対に勝たなければならない」試合を歪曲し、日本を不利な状況に陥れたのは当の放送局だったと言える。 しかしながら日本は敗退したものの、W杯はこれからが本番。明日も早朝4時に「オランダ×ポルトガル」が、27日には「ガーナ×ブラジル」、「フランス×スペイン」と好カードが目白押しである。日本代表監督の後続はジェフ千葉のオシム監督が内定し、オシム流代表選考にも期待が高まる。4年後も含めて、これからもW杯から目が離せない。 ※ 本記事のライターは「日本チームが現地午後3時試合開始という酷暑のなかで2試合戦ったことに対してジーコ監督は別のインタビューで日本のテレビ中継との関連をコメントしたが、中田英選手は会見場で「両チームが同じ条件でプレーをしているので、日本チームだけに不利とはいえない」とはっきり否定し、雨や雪のなかでさえプレーするのがサッカーだと付け加えている。」とし、テレビ放映のための試合時間変更が直接の敗因ではなかったとしている。しかしスタミナが落ちた戦況では両チーム共に自然と大きなボールが多くなる。そのため小さなパスをつなぐ日本にとってスタミナ切れは致命的、対して大きなボールを出してもキープできる体格差を持った豪州にとっては両チームのスタミナ切れは大きなアドバンテージにもなるのである。また、関連記事「新聞メディア、ジーコ・ジャパンの敗因それぞれ」では、「さて、筆者、PJ佐藤による日本対オーストラリア戦の戦評は、中村選手のクロスがゴールとされたのは判定ミスと考え、実際の結果は0─3の日本の惨敗」としている。これも試合後のレフェリーのコメントによれば、高原によるGKへの接触は豪州DFによるプッシングによるものであった。あの時点でのレフェリーの判断は「そのまま日本のゴールとするか、ゴールの前にファールがあったとして日本にPKを与えるか」に絞られており、結果レフェリーは「日本のアドバンテージを取ってゴール」と判断したのである。あの1点は判定ミスではなかった。
青木淳氏による自作キャラ無断使用の件について、小野弘人氏によるブログ「ほんとうのアルマジロ人間」が公開されている。本ブログには、小野弘人陳述書のほか仮処分申立書の全文が掲載されている。これにより、本件のより詳細な論点を整理することができる。
問題となる経緯 小野氏の自作キャラ「アルマジロ人間」が無断使用された青木淳氏による絵本『家の?』は、小野氏が青木淳建築計画事務所在籍時(1997年1月)に手がけた「仮想の住宅プロジェクト「U(ユー)」邸」の建築雑誌発表用の図面及び模型(※1)に依拠して作られた。 「青木氏とスタッフであった森昌樹氏、田中昭成氏、Y氏の4名とともに「U邸」の企画・設計を開始しました。数日、5人で作業を進める中で、私は「U邸」のキーコンセプトになる二つのコンセプトを提示しました。ここで大まかな方向性が決定したので、森昌樹氏と田中昭成氏は「U邸」から外れ、他のプロジェクトに移りました。その後は、青木氏、Y氏、私の3名で建物の構成を議論しながら進めました。ほぼ建物の構成が決まり、その後の模型や図面の作業は、私が指揮を取りY氏と2名で進めていきました。 私は模型の最終的な表現の段階で、「O邸」で私が発案し制作した“アルマジロ人間”のイラストを基に、ここで初めて、“アルマジロ人間”の立体人形を3体作り、模型の中に配置しました(疎甲第4号証『建築文化1999年11月号』90〜91頁の写真)。」(※2) 論点①雇用者小野弘人氏個人に著作権は生まれないのか? 青木氏は「アルマジロ人間」を小野氏の著作物であると認めながら、「アルマジロ人間」を含む「U邸」の図面及び模型は青木建築計画事務所の「法人著作」であると主張した。「イラスト及び立体人形「アルマジロ人間」は建築図面及び模型と切り離して別個独立の著作物とは言えないほどに一体化した構成要素である」とする青木氏の主張に対し、小野氏は「架空の動物人間と建築図面等との組合せの異色さという点からも、のちに、当の債務者青木自身が「U」の建築図面を作品集に再掲する際に本著作物1をすべて排除し、切り離している点からも、さらには本絵本に登場する「アルマジロ人間」はその形も位置も、元の建築図面等における形や位置関係と全く無関係に、あたかも独立の著作物のごとく自由な形に変形され、自由な位置に置かれている点からも成立する余地はない。」と反論している。 その後の青木氏の反論 「人に似ている親しみのわく生き物が「U」のなかで実際に生活しているイラストを加えたのです。かつそのイラストは設計意図の持つ、未だ誰も人が経験したことのない生活に対する期待感を表現するため、人であるよりは、未知の生き物がふさわしかったのです。‥‥すなわち本件イラストの制作には、青木事務所の全体的な関与があり、青木事務所の発意のもとに制作された」 それに対する小野氏の反論 「本件の「U」の図面や模型制作に対しても、「そのイラストは設計意図の持つ、未だ誰も人が経験したことのない生活に対する期待感を表現するため、人であるよりは、未知の生き物がふさわしかった」旨指示したことは、明示にせよ、黙示にせよなかった。それどころか、債務者青木は「U」の図面や模型にトイレがなかったことを雑誌掲載のあとになって初めて知ったのであり(疎甲6。あとがき54頁)、そもそもそれくらい本件の「U」の図面や模型制作に関与しなかった」 論点②青木淳建築計画事務所の著作権は青木淳氏個人に帰属するのか? 青木氏は絵本『家の?』執筆にあたり、法人著作者である青木建築計画事務所の同意のもとに「アルマジロ人間」を翻案したと主張する。しかし小野氏によれば、「もし初めから本気で法人著作が成立していると考えていたならば、本絵本執筆にあたって法人著作者である青木事務所の同意のもとに本著作物2を翻案したことを本絵本の奥付で表示する筈のところ(本絵本の著作権については、厳格に著作者表示や(C)表示がなされている)、実際の奥付にはそうした表示は一切なく、そこからして、法人著作が債権者からの通知書によって初めて構想された苦し紛れのアイデアでしかない」と、青木氏が「アルマジロ人間」を「法人著作」と主張しながら『家の?』の奥付に青木淳建築計画事務所の名前を表示していない矛盾を指摘する。 [参考図版](※2) ![]() ![]() 上記図版からも、絵本『家の?』が「U邸」の図面及び模型を翻案・改変・出版したものであることは明らかである。このことから本件は、「U邸」の設計にあたり青木氏がスタッフに対し、「未だ誰も人が経験したことのない生活に対する期待感を表現するのにふさわしい、人であるよりは、未知の生き物」を登場させることを指示していたか?に絞られたと言っていい。陳述書の最後を小野氏は以下のように締めくくっている。 「この絵本の中では、青木事務所で設計した「U邸」が舞台として登場します。この絵本が、「U邸」という建物やその空間を子どもにわかりやすく伝える本なのであれば、私が考案・命名した“アルマジロ人間”を主人公にする必然性はどこにもありません。青木氏自身で新しいキャラクターを考案すれば、それで済む事です。 それでも青木氏が、この“アルマジロ人間”のキャラクターに強い愛着を感じ、これをどうしても使用したいというのであれば、私にその旨申入れをすれば済む事です。なぜ事前に私に1本の連絡すらできなかったのでしょうか。」 ※1 『GA JAPAN25/3-4 1997』(エーディーエー・エディタ・トーキョー)掲載 ※2 本文中の「」内の文章、及び参考図版はすべて「ほんとうのアルマジロ人間」からの抜粋
和田義彦氏の盗作疑惑に平行して、以下のような盗作疑惑が浮上しているのをご存知だろうか?
共同通信「「自作キャラ無断使用」 建築家の本販売中止求める」 「芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した建築家青木淳さんの事務所で働いていた建築士小野弘人さん(40)が8日、青木さんが書いた絵本の中で自作のキャラクターを無断使用され、著作権を侵害されたとして、絵本の出版元に販売差し止めなどを求める仮処分を東京地裁に申し立てた。」 青木淳氏は平成16年度芸術選奨文部科学大臣新人賞の受賞者。芸術選奨受賞は建築家としての設計活動が認められたもので、贈賞理由も「『青木淳 JUN AOKI COMPLETE WORKS 1 1991-2004』(INAX出版、10月)に収められた建築作品群は、住宅、文化施設、商業施設等を含む。とりわけ東京やニューヨークにおけるルイ・ヴィトンの施設は、商業建築に質の高い建築表現をもたらし、注目された。こうした幅広い設計活動はこの建築家の才能と関心の広さ、そして方法的可能性を物語っている。「空間の質は機能に先行する」という言葉で建築の自立を求める彼は、建築の種別を越えた表現の可能性を追求している。」とのこと。小野弘人氏の自作キャラ(アルマジロ人間)が無断使用されたのは2006年3月出版(※)のことであるから、和田氏のように芸術選奨受賞それ自体が問題となることはない。それにしても「芸術選奨」と「盗作」のという組み合わせは、美術業界にとって今一番ヤバい。それだけに当記事が黙殺されるという状況があるようだ。 Sponichi Annex「芸術選奨建築家 他人のキャラ使用か?」によると、「青木さんの代理人弁護士は「小野さんが作ったキャラクターだが、事務所に在籍時のもので、著作権は事務所にある」と反論している。」ようである。つまり青木氏の代理人弁護士は、アルマジロ人間が「小野さんが作ったキャラクター」であることを認めているにもかかわらず、著作権は小野氏個人にあるのではなく、青木建築計画事務所という法人にあると主張しているのだ。 あれ?『くうねるところにすむところ14 家の?』の著者って青木建築計画事務所だったっけ? 整理しよう。 ①雇用者小野弘人氏個人に著作権は生まれないのか? ②青木淳建築計画事務所の著作権は青木淳氏個人に帰属するのか? ①は既に、青色LEDの発明者中村修二氏が特許権(正確にはその対価)について世に問うている。結果、東京地裁は発明に見合った対価として200億円の支払いを命じた。青色LEDの特許権は日亜化学工業がそれを所有する。しかし今回の件は著作権の問題であり、ましてや中村氏のケースのように法人が明確にその発明を命じてはいない。当然小野氏は建築設計の技術・構想によって青木淳建築計画事務所に雇用されていたのであり、小野氏の創作活動全ての著作権を法人が管理するというのは権限を逸していると言う他ない。 ②はどうなんだろう?考えるのもくだらない。青木淳建築計画事務所が株式会社である以上、会社の所有物は社長はじめ社員、また株主全体のものである。和田義彦氏の盗作疑惑について、一部の美術プロパーは世間に通用しない理論で明らかな盗作を創作活動であると断じた。芸術活動の法令遵守については議論を呼ぶところだが(そもそも芸術活動なんて法を犯すようなものだ)、盗作に対する感性としては世間の目の方が美術業界などよりもよっぽど良識を持っている。「会社のモノは社長のモノ」なんて言ったら、それこそホリエモンや村上世彰は黙っていないだろう。 [関連記事] ZAKZAK「自作キャラ「アルマジロ人間」元勤務先が「無断使用」」 中谷仁人「制作の過程(歴史)への参画について・小野弘人さんによる青木淳著『家の?』仮差し止め処分請求にかかわる所感」 aki's STOCKTAKING「家の?」 ※ 青木淳『くうねるところにすむところ14 家の?』(インデックスコミュニケーションズ) 子どもたちに伝えたい家の本シリーズ「くうねるところにすむところ」は全部で12巻。今年、ディレクターの真壁智治氏が芦原義信賞を受賞した。
絵画を、画像としか見れない人の感性は悲しい。
例えば有名なフェルメールの「ポワンティエ」をとってみても、あのきらめくような光の粒は画像として際立っている以上に、あのような光の粒を描くための油の調合が際立っているのである。ヤン・ファン・エイクに至っては、今現在までそのメディウムは特定できていない。それくらいに元来絵画は、画像を楽しむのと同時に、その組成を楽しむものであった。卓越した組成をして画家は初めて「上手い」と呼ばれていたのである。(以前、東京都美術館「フィレンツェ―芸術都市の誕生展」で見た、無名画家のダ・ヴィンチ≪アンギアリの闘い≫の模写は、油のもたつきとそれによる筆運びの悪さから、その組成をして彼を無名画家たらしめていることを実感した。) 昨今話題になっている盗作問題にも、このことは顕著に現れている。和田義彦氏による盗作疑惑の一報を聞いたとき、「今さら盗作」という思いが浮かんだ。「盗作」というフレーズがあまりに時代おくれに響いたからである。なぜ時代おくれか?私は何も、美術作品において歴史的な参照が珍しくないことや、特に現代美術の分野におけるアプロプリエーションを殊更に強調したいわけではない。今回の盗作問題に対して以上のような美術プロパーの見識をひけらかすことは、世間の美術に対する不信をあおる以外ないだろう。(特に今回のような「オヤジの頭の禿げ上がり方までそっくり」な盗作疑惑に対してはなおさらである。)私が何より時代おくれに感じたのは、「盗作」を構成するフレームがあまりにも画像中心的であり、絵画本来の組成と全く分離して抽出されてしまっているところにある。 実は私も、和田氏が所属していた「国画会」に2000年に出品し、入選したことがある。大学一年の時の話だ。私が尊敬する高校時代の恩師、開光市先生が「国画会」の会員であり、このことから私は同会をよく知るようになった。「国画会」は土田麦僊、村上華岳らによる「国画創作協会」 を前身とし、絵画部には梅原龍三郎、高村光太郎、灘波田龍起、山口薫、香月泰男らが名を連ねる。同会の現在の傾向は、一言で言えば技法先行のマテリアリズム(物質主義)。当の和田氏自身、「スギさんの作品と形を同化して、私なりの空間・造形性を技法とマチエール(絵肌)で盛り込み、独自の世界を創造した。」と主張するように、「技法とマチエール」をそのまま「空間・造形性」とするところは同会の傾向と一致している。極端に言えば、独自の「技法とマチエール」が絵画の「空間・造形性」を保障しているのであるから、画像はそこに添えられるだけで良いのだ。だから和田氏にも、画像をどこから引用しようと、あまつさえ盗作しようと、独自の「空間・造形性」として評価されるという開き直りがあったに違いない。(そして実際に評価されてしまった。) 画像と技法(組成)との分離、ここに今回の「盗作」というフレームが紛れ込む原因があったように思う。絵画を、画像としか見れない人の感性は悲しい。しかし絵画を、マテリアルとしか見れない人の感性の貧困は、独自の技法で描かれた絵画であれば、そこにどんな画像を当てはめても、たとえそれが他人の手によるものだったとしても、その独創性は失われないと信じるほどにまでなっている。 [関連記事] 森村誠一「和田作品の文化庁裁定について」 SANSPO.COM「洋画家・和田義彦氏、作品酷似で文化庁に調査うける」 Beacouse It's There「洋画家問題~東郷青児美術館大賞も取り消し」
下記のヴァールブルクによる徴候の二つの分類について、指摘をいただいた。図像学の分析において、リテラルな意味をではなく、その意味を創出するメカニズムを捉えるという手法は、構造的理解を得るために必要な視点である。しかし一方で、構造を浮き彫りにして解決足るとする手法が、それ自体の構造的欠陥(構造は事後的にのみ見出される)を孕んでいることに観者は自覚的でなければいけない。以上の意味において、以下は重要な指摘を含んでいるため、ここに全文を掲載させていただく。
「多少意地悪な言い方をするならば、 言ってしまえばヴァールブルクの一つ目の分類は可能性の通路であり、 価値形態論的な交換の空間として設定される訳ですが、二つ目のそれは不可能性の通路であり、不可能であるがゆえに開かれる苦悶の通路として、それは設定される訳です。それがある種の乗り越えの可能性を秘めているというのは、別に目新しい事では在りません。また、作用という概念の複雑な様相、作用の現在性は書きとめる事ができないという不可能性の側面から発生する記述と再演の問題などを考えると、徴候という概念もまた、既に20世紀に提示され続けた問いの焼き直しという言い方も出来ますし、そもそもそのような堂々巡りこそ、フロイトのいらだち、フロイトをして「それは分析ではなくて、治療されなければならない」と言わしめ、徴候という言葉を生み出させるにいたった苛立ちの元だったのではないか、と言える訳です。そういう点から、アガンベンの言うようなヴァールブルクの援用を簡単には受け入れがたいという感じもします。そのような批評家や哲学者の表層を促す健忘症こそ、フロイトをいらだたせた当のものだったのではないか、という意味も含めて。」 徴候という概念が、絵画制作における遅延、まさに「作用の現在性は書きとめる事ができないという不可能性の側面から発生する記述と再演の問題」を焼き直したにすぎないというのは全くそのとおりであり、逆にそのことが今日可能性を取りざたされている最大の理由でもある。では20世紀に提示され続けた問いが、なぜ今なお取りざたされるのか?そこにリヴィジョニズム(修正主義)の影響を感じないわけではない。しかしリヴィジョニズムの錬金術的性格(学際的視点からメディア間の落差を用い、「価値のないところに価値を生む」・・・まるで為替ディーラー)を差し引いても、徴候の研究が再考される意義は、作品内部からフレームを再考する真に「フォーマリステック」な手法の精彩がそこに見て取れるからだろう。ならば、であるからこそなおさら、「それは分析ではなくて、治療されなければならない」ことは、芸術の閉塞状況を打開する上で重要な示唆となるべきはずだ。
今日は仕事を早めに切り上げて、四谷で田中純先生の講義を受講した。内容はアビ・ヴァールブルクの「情念定型(パトス・フォルメル)」の背景と射程について。田中先生といえば、『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(青土社)が2002年サントリー文芸賞を受賞するなど、今日のヴァールブルク研究の第一人者である。今日の講義を振り返るにあたり、まずは松岡新一郎「記号(シーニュ)と徴候(サンプトム)」(※1)から次の一節を引きたい。
「症状=徴候を分類しようという欲求は常に精神分析家とともにある。しかしながら、その作業は往々にして、抑圧に加担しかねない、心的装置の合成写真作成に留まっている。症状=徴候と見なされたものは、一度は観察の残余(観者の話、訴えにおける付属的ないしは無視しうる部分)として排除されたものとの関係で最終的に見直されねばならないのだ。」 美術史家もまたイコノロジーとして読み解かれる多くの表象を、まずはそれが「往々にして、抑圧に加担しかねない、心的装置の合成写真作成に留まっている」と疑ってみることである。象徴と見なされたものは、「一度は観察の残余として排除されたものとの関係で最終的に見直されねばならない」のである。記号論や図像学は近年、精神分析的手法の導入によって改編が進んできた。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンによる「徴候」と「症候」の分類がそれにあたるが、しかし既にヴァールブルクによって「文化科学の二つの方法」としてその二つが分類されていことは、本講義における最も重要な指摘の一つである。 [ヴァールブルクによる分類] ① 言葉と像のあいだに体系的な秩序を築き上げ、あらゆる分野を相互に関連づけて解明する 「イコノロジー的」演繹的徴候学モデル。 ② 『古代』を映し出す鏡に見出される「歪み」を多重決定的徴候(症候)として分析する方法。 本講義の要点のもう一つは、ヴァールブルクの「情念定型(パトス・フォルメル)」という視点に「②症候としての分析方法」の代表例として、ヴァールブルクの思考の特異性・可能性が見出せるという指摘である。要約しよう。「情念定型」とは、「歴史的な反復現象(『古代』を映し出す鏡)に見られる誇張表現(歪み)」である。「歪み」の分析は「抑圧に加担しかねない、心的装置の合成写真作成」としての「①演繹的徴候学モデル」を超えて、「観察の残余として排除されたものとの関係で最終的に見直され」る症状の出現メカニズムの読解となるのである。アガンベンも指摘するように、ヴァールブルクの提唱した「情念定型」は、「「意識的表現」の研究としての歴史学と、「無意識の条件」の研究としての人類学の間を乗り越えることを可能にする」(※2)モデルなのである。と、だいたいこんなところが2000円分(本講義はピックアップ講座として2000円で受講できる)の要旨だろうか。加えて「身振り」と「足」に関する解析も展開され、なかなかお得な2000円分であった。たまには腐りかけた脳ミソに濃密な情報をブッこまないと。 [関連書籍] 赤間啓之『デッサンする身体』(春秋社) カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』(せりか書房) 徴候=症状(サンプトム)という視点は、例えば「物理的な額を取り外せば、すぐさま絵画が周囲の空間に展開していく」と安易に考える昨今のメディア理解に対して、「作品内部からその発生メカニズムとしてのフレームを描き出す」重要な視点である。本講義では歴史的な反復現象に現れる抵抗として徴候=症状が読み取られたが、作家の視点としてはソースなき反復現象における抵抗としての徴候=症状を夢想したくなった。というより、それを目指して日々制作しているわけなのだが。 ※1 『表象のディスクール④ イメージ』(東京大学出版会)収録 ※2 ジョルジュ・アガンベン「アビ・ヴァールブルクと名前なき科学」(石岡良治訳)
一昨日4日(日)は、久しぶりに国立西洋美術館へ行ってきた(思えば「ラ・トゥール展」以来)。最終日である「ロダンとカリエール展」を見る。開館直後だったためか、最終日というのに人はまばら。いたって快適に鑑賞することができた。
今回出品されてはいないが、ロダンに《神の手》という「手が石を持っている」のか、「その石から手が割り出されて造られた」のか分からない、ヘンテコな(批評風に言えば、両義的な)作品がある。ロダンの彫刻には、しばしばそのような“制作過程の断片”が残余として見られる作品が多い。本展において同時代に交流のあったカリエールと類比されるロダンは、まさしく前述のような石塊に半ばうずもれながら彫り出される人物像である。カリエールの作品はと言えば、薄もやの中から立ち現れる人物像が特徴的である。まるで美大受験生の人物画のように、絵の具を拭き取り、時には削って、キャンバス地を露出させて活かす洒脱な作風である。一方で、ちょうど常設展にも似た要素を持つ先人の作品があるなと私なんかは思った。ルーベンスの油彩素描がそれで、ルーベンス工房に特徴的な「インプリマトゥーラ(※)の荒い塗り残し」を活かした描法を、カリエールは近代風に解釈したと言える。 「人物やものの表面に見える形ではなく、その奥に潜む「内なる生命」を表現する」というロダンとカリエール共通の思想は、魂のような石塊から割り出される生命表現(ロダン)と薄もやの中から照らし出される人間主義(カリエール:彼の主題には母子愛が多く見られる)というそれぞれの形式の中に読み取ることができる。たしかにカリエールの肖像画とロダンの肖像彫刻は、リテラルにも表現形式的にも良く似ている。しかしカリエールがロダンのように造るもの(作者)と造られるもの(作品)との緊張関係、作者と作品の相互陥入的な造形原理にまで関心が及んでいたかには疑問が残るところだ。 とは言えカリエールにも自覚的なところがないわけではない。彫刻を作る彫刻家を主題とした作品では、彫刻と彫刻家それぞれを有機的な筆致で一体的に描き出し、作者と作品を同時に分離して描くことの可能性/不可能性を露呈していた(このテの作品、表象を表象することの起源は、レンブラントの≪トゥルプ博士の解剖学講義≫、またはカラヴァッジョの≪メドゥーサ≫に求められる)。とにもかくにも本展は、これまでまともに焦点を当てられなかった画家カリエールをじっくり鑑賞する良い機会だった。ロダンとの親近性も実感できた。その意味では非常に有意義な展覧会であったと思う。が・・・やっぱりロダンの方が一枚も二枚も格上だという印象を強くする結果となったことは言うまでもない。そういや以前モネとモリゾの展覧会なんてのも、どこかであったなぁ。 ※ 地透層:下地の吸収調整として施される第一層。主に有色で、有色下地とも言われる。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||