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![]() OKADA Takuya Exhibition 展示会期|2010年2月15日 [月]―27日[土] 日曜休 開場時間|11:30a.m.―6:30p.m.[土曜日5:30p.m.] 会場|ギャラリーなつか 絵の具をトレースする感覚は、画像をトレースする感覚よりも驚きに満ちている。 絵の具は支持体をトレースし、タッチは身体をトレースする。 それらトレースされた痕跡は、新たに発見される「細部」として私たちの前に現れる。
1.
西田幾多郎『善の研究』の序にこうある。 「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」 個人的区別より経験が根本的であるとするこの考えは、純粋経験から物事を思考しようとする西田哲学の根本である。また、第一章冒頭にはこうある。 「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。(…)たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。」 純粋経験の立場から言えば、事前の了解というものは何の意味も成さない。絵画で言えば、これは何々を描いたものであるとか、作者の心情であるとか、タイトルとかいうものは、その経験の前には無力だ。現代絵画の父であるフランク・ステラはこう言った。 「What you see is what you see(あなたの見ているものが、すなわちあなたの見ているものである)」 2. 思えば初めて西田哲学館に足を運んだのは、2003年の夏、福井県・美浜美術展で大賞を受賞した時のことだった。本個展の始めを飾る作品でもある。今回約7年ぶりに西田哲学館の常設展示を観覧したが、1階展示室突き当たりに突然現れたハイデガーの写真に驚かされた。説明によれば、かほく市と姉妹都市を結んでいるドイツ・メスキルヒ市がハイデガーの生誕地とのこと。 私は大学時代、現象学を通じて絵画に対する思考を深めていった。見ることから始め、その能動的な行為から作品を捉え直すことが私の研究主題だった。西田博士の言を借りれば、「経験あって絵画あるのである」。マルティン・ハイデガー『存在と時間』は、そんな時に出会った哲学書の一つだ。 ハイデガーは、本質存在に対して現実存在の優位を説く「実存主義」を提唱した哲学者であり、フッサールを師に持つ。ハイデガーの「実存主義」とは、経験を通して絶えず刷新される生を描いたものだった。ハイデガーは人間のことを「現存在(ダーザイン)と呼ぶ。「存在作用(ザイン)」の「場(ダー)」こそが人間であるとする考えは、個人的区別より経験が根本的であるとする西田哲学に共通している。ここかほく市に生まれ、金沢で教鞭を執りながら、この日本で西洋現象学に通ずる観念を発想した西田博士を思うと、身の引き締まる思いである。 3. 故郷かほく市を縁に、「偶然に」遭遇した西田哲学とハイデガーとの出会いは、私をかつての研究主題に立ち戻らせてくれた。かほく市立志式での記念講演に合わせて、これまた「偶然に」決まった本個展ではあったが、2003年からの自分の仕事を振り返り、改めて原点を確認できた貴重な経験となった。ここを新たなスタートの場としていきたい。 < 前のページ次のページ >
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