千歳船橋ディストラクション
2022-08-26T00:01:25+09:00
krupa
岡田卓也 takuya3877@gmail.com
Excite Blog
千歳船橋ディストラクション
http://krupa.exblog.jp/241509372/
2022-04-01T20:30:00+09:00
2022-08-26T00:01:25+09:00
2022-06-22T13:22:59+09:00
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PROFILE
画家「岡田卓也」のサイトです。
ステートメント
日本伝統の友禅は、でんぷんのりを防染剤として用い、
複数の柄が折り重なった複雑な装飾を見せている。
対して90年代から発達したDTPは、
複数のレイヤー操作をディスプレイ上で統合することを可能にし、
かつて職人が手作業で行ってきた作業をPC上で実現している。
私の作品は、
伝統の友禅と現代のDTPの間をつむぐように、
独自のアクリル技法を用い、キャンバス上に
複数のレイヤーが折り重なった画面の実現を目指している。
主な活動歴
【略歴】
石川県出身
筑波大学大学院修士課程芸術研究科修了
【受賞】
「第17回美浜美術展」大賞
(福井県立美術館ほか)
「ターナー色彩 GOLDEN COMPETITION 2009」U35賞
(O美術館)
【パブリックコレクション】
筑波大学東京キャンパス
問い合わせ先
作品や活動に興味をもたれた方は
takuya3877@gmail.com
まで、ご連絡ください。
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主な作品
http://krupa.exblog.jp/21576215/
2015-06-01T03:13:00+09:00
2022-06-22T13:33:27+09:00
2015-08-24T03:21:07+09:00
krupa
PROFILE
「ターナー色彩 GOLDEN COMPETITION 2009」U35賞(O美術館)
「TOKYO WONDERWALL 2010」入選(東京都現代美術館)
2010 個展(西田幾多郎記念哲学館)
2010 個展(ギャラリーなつか)
「SICF12」入選(スパイラルホール)
2011 企画グループ展「RELATIONS」(清澄白河)]]>
RELATIONS
http://krupa.exblog.jp/21576229/
2011-09-09T03:31:00+09:00
2022-04-13T10:06:17+09:00
2015-08-24T03:44:56+09:00
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NEWS
磯貝望、平田由布、岡田卓也:RELATIONS
2011年9月20日 - 10月2日(月曜休)12:00 - 7:00pm
この度、深川番所ギャラリーでは2011年9月20日より10月2日まで、サクラギャラリーとの合同展「リレーションズ」を開催いたします。本展は同一のアーティストの作品を趣の異なる環境に展示し、空間と作品が織り成すドラマを生み出そうとする試みです。今回は若手アーティスト磯貝望、平田由布、岡田卓也によるペインティングを紹介いたします。
Fukagawa Bansho Gallery
東京都江東区常盤1-1-1-2F
03-6666-9862
SAKuRA GALLERY
東京都江東区常盤2-10-10
03-3642-5590
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SICF12
http://krupa.exblog.jp/21576152/
2011-05-10T02:33:00+09:00
2022-04-14T12:27:30+09:00
2015-08-24T02:37:20+09:00
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NEWS
《いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ》
「いろはにほへと」は、よく知られたいろは歌であるが、単なる47文字の羅列が音と意味を自然発生的に生み出す点がおもしろい。本作品では、単なる筆触の羅列がイメージを呼び込み、単音が単語に、単語が和歌に、それぞれ変化していく様を表現しようと試みた。
会期
A日程: 2011年5月2日(月)、5月3日(火・祝)
B日程: 2011年5月4日(水・祝)、5月5日(木・祝)
会場: スパイラルホール(スパイラル3F)主催: 株式会社ワコールアートセンター
企画制作: スパイラル
審査員
浅井隆 (有限会社アップリンク社長、「webDICE」編集長)佐藤尊彦 (株式会社ビームス販売促進本部プレス)南條史生 (森美術館館長)紫牟田伸子 (デザインプロデューサー、ジャーナリスト)岡田勉 (スパイラルチーフキュレーター)
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TOKYO WONDERWALL 2010
http://krupa.exblog.jp/21576143/
2010-09-20T02:16:00+09:00
2022-04-13T09:56:46+09:00
2015-08-24T02:21:59+09:00
krupa
NEWS
「トーキョーワンダーウォール公募2010入選作品展」 東京都現代美術館 2010.5.29-6.20]]>
岡田卓也展
http://krupa.exblog.jp/9954253/
2010-02-14T08:30:00+09:00
2022-04-13T10:07:29+09:00
2010-02-14T08:30:06+09:00
krupa
NEWS
OKADA Takuya Exhibition
展示会期|2010年2月15日 [月]―27日[土] 日曜休
開場時間|11:30a.m.―6:30p.m.[土曜日5:30p.m.]
会場|ギャラリーなつか
絵の具をトレースする感覚は、画像をトレースする感覚よりも驚きに満ちている。
絵の具は支持体をトレースし、タッチは身体をトレースする。
それらトレースされた痕跡は、新たに発見される「細部」として私たちの前に現れる。
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展覧会と受賞のお知らせ
http://krupa.exblog.jp/9262519/
2009-11-18T00:32:00+09:00
2022-04-14T12:31:05+09:00
2009-11-18T00:32:07+09:00
krupa
NEWS
この度、ターナー色彩株式会社による「GOLDEN COMPETITION 2009」におきまして、35歳以下の新人に贈られる「U35賞」を受賞いたしました。
「GOLDEN COMPETITION 2009」入選作品展は、以下の日程で行われます。
2009年11月20日(金)~25日(水)O美術館(JR大崎駅徒歩5分)
http://www.turner.co.jp/GoldenConpetition/2009/exhibition.html
お誘い合わせの上、ぜひお立ち寄りください。また、来年には二つの個展を予定しております。
2010年1月31日(日)~2月6日(土)
西田幾多郎記念哲学館(石川県かほく市)
2010年2月15日(月)~27日(土)
ギャラリーなつか(銀座)
こちらも合わせて宜しくお願いいたします。
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B5水彩画
http://krupa.exblog.jp/8368849/
2009-06-08T01:04:00+09:00
2022-04-14T12:32:13+09:00
2009-06-08T01:04:22+09:00
krupa
NEWS
《草花》 BBケント、アクリル B5 2009]]>
新作
http://krupa.exblog.jp/7725112/
2008-12-09T21:39:00+09:00
2021-05-26T09:40:06+09:00
2008-12-09T21:40:39+09:00
krupa
NEWS
《花Noir0ハ》 パネル、綿布、アクリル 145×97cm 2008
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岡田卓也展
http://krupa.exblog.jp/6793503/
2008-02-14T20:23:00+09:00
2022-04-13T10:20:14+09:00
2008-02-14T20:21:09+09:00
krupa
NEWS
OKADA Takuya Exhibition
展示会期|2008年3月3日 [月]―8日[土]
開場時間|11:30a.m.―6:30p.m.[最終日5:30p.m.]
会場|ギャラリーなつか
イメージのスピードとは、イメージの混交、その雑種性によって生じる階層のズレのことである。今回の展覧会では、解剖(anatomy)とメルヘン(Marchen)をテーマとして、落差を問題としました。意味の落差と階層の落差を重ね合わせたミクスチャーペインティングをお楽しみください。]]>
岡田卓也展
http://krupa.exblog.jp/4725003/
2006-11-22T01:25:00+09:00
2022-04-13T22:34:23+09:00
2006-11-22T01:25:03+09:00
krupa
NEWS
OKADA Takuya Exhibition
展示会期|2006年11月20日 [月]―25日[土]
開場時間|11:30a.m.―6:30p.m.[最終日5:30p.m.]
会場|ギャラリーなつかb.p
岡田卓也インタヴュー
今回の作品は「星座」がモチーフになっていると聞きました。しかし一見してわかるように、これらの絵画はいわゆる星座を写実したものではありません。岡田さんの考える「星座」とはどのようなものか、お話いただけますか。
最近だと冥王星が惑星の定義から外れたというニュースがありましたが、私たちの宇宙の定義というのはそれ自体が不確定なものです。そのなかでも星座は、何の確証性も持たないまま数千年維持されてきた体系ですね。誰もが星座の体系に根拠がないことは承知していますが、確かに星空を見上げると、カシオペヤ座やオリオン座が星座として浮かび上がってくる。これは私たちがそう見ようとするから星座に見えるのか、それとも星自体による分節がそう見させているのか、非常に曖昧です。星空を見上げた時にはまず、一種の眩暈を覚えるだろうと思います。一種の混乱から次第に形が形成される。これは星座に限らず全ての現象がそうなのですが、星座は特に特有の視覚体験を伴う。そこがまずおもしろいと思います。
次に星座と絵画を比較したとき、近い部分があります。星座というのは通常、平面的に表されます。白鳥座の十字やカシオペヤ座のW形、こぐま座のひしゃく形というように。けれどもそれらは天球平面上に、より正確には視覚平面上に圧縮した形で表現されたものですね。実際には星座を構成する星と星の間には奥行きがあり、それは無限に広がっています。一方絵画では、制作上のプロセスがいくつも入り組んで完成に至ります。見る人には圧縮された形で画面として見えますが、より詳しく見ていけば、そこには単一の画面に還元できない多様な徴候が見てとれるでしょう。星座も絵画も一般的には平面的に捉えられますが、その実、無限の広がりを持っています。
まず光の散乱がどうして形に見えるのか、私たちがそう見るから見えるのか?それともそれがそう見させるのか?という問題がありました。これは主/客という分節を構成する視覚のあり方の問題だと思うのですが、それについてどうお考えですか。
そもそも視覚自体が、それによって対象を占有するという能動的な側面と、見ているだけで手出しはできないという受動的な側面の両義的な性質を持っています。かつての絵画論では"見る"ことで世界を所有する「主体」を設定するというモデルが一般的でした。遠近法も共同体としての「象徴形式」であるという考え方ですね。一方で最近では「アフォーダンス」という考え方が台頭してきました。アフォーダンスは、モノと主体の双方を"見る"という行為から分節するという考え方です。前者がモノを主体に従属させる自己保存的な立場だとすれば、後者はモノが主体を指示づける自己形成的な立場です。
例えば「この絵の前に立ったらこう見なさい」というコンベンションは、美術を巡る制度や社会的なポジションによって外から与えられるだけのものではありません。むしろ絵画それ自体が、視覚のコンベンションを作るひとつの有力な装置でした。かつて絵画が強固な(先取りされた)見る主体を維持してきたことを考えると、"見る"ことで新たに主体とモノとを分節するアフォーダンスの考え方は今日的な絵画を考える上で重要だと思います。
次に星座と絵画の奥行きについて先ほどのお話をまとめると、形が認識される背景には、星座には奥行きが、絵画にはプロセスがある。単純にそういうことですか。
私が言いたかったのは、星座であれ、絵画であれ、形が認識される背景には潜在的な空間があるということです。先ほどの(主/客を分節する視覚の)話につなげれば、ロザリンド・クラウスは「見る衝動/見させるパルス」で、このような視覚を構成する潜在空間をマトリクスと呼びました。星座は安定した形があるように見えますが、この光は一万年前の光、あの光は数百万年前の光というように、個々の光は全く違う時間を生きています。星座がおもしろいのは、星と星の間には物理的な距離があるのではなく、時間的な距離があるというところです。それぞれの光が存在している時間が違うのですから、その空間を簡単に総合することはできません。まさに「共存不可能なものが一つのブロックを形成している」マトリクスだと言うことができます。
同様に絵画もまた複数の時間を生きています。最終的に一枚の画面に仕上がるように作者は作品を総合しますが、それぞれのプロセスは作者の意志とは関係なく、それぞれの枠組みを指示します。プロセスの集積が単純に画面を充足させるわけではないことは、絵を描いたことがある人ならご存知でしょう。セザンヌのように、塗り残しが作品を仕上げることもあります。絵画も星座と同様に、複数の時間の切断面なのです。
(つづきは、会場配布のリーフレットをご参照ください。ご来場をお待ちしております。)
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ロダンとカリエール
http://krupa.exblog.jp/3702062/
2006-06-06T22:28:00+09:00
2006-06-07T20:38:45+09:00
2006-06-06T22:28:06+09:00
krupa
展評
今回出品されてはいないが、ロダンに《神の手》という「手が石を持っている」のか、「その石から手が割り出されて造られた」のか分からない、ヘンテコな(批評風に言えば、両義的な)作品がある。ロダンの彫刻には、しばしばそのような“制作過程の断片”が残余として見られる作品が多い。本展において同時代に交流のあったカリエールと類比されるロダンは、まさしく前述のような石塊に半ばうずもれながら彫り出される人物像である。
カリエールの作品はと言えば、薄もやの中から立ち現れる人物像が特徴的である。まるで美大受験生の人物画のように、絵の具を拭き取り、時には削って、キャンバス地を露出させて活かす洒脱な作風である。一方で、ちょうど常設展にも似た要素を持つ先人の作品があるなと私なんかは思った。ルーベンスの油彩素描がそれで、ルーベンス工房に特徴的な「インプリマトゥーラ(※)の荒い塗り残し」を活かした描法を、カリエールは近代風に解釈したと言える。
「人物やものの表面に見える形ではなく、その奥に潜む「内なる生命」を表現する」というロダンとカリエール共通の思想は、魂のような石塊から割り出される生命表現(ロダン)と薄もやの中から照らし出される人間主義(カリエール:彼の主題には母子愛が多く見られる)というそれぞれの形式の中に読み取ることができる。たしかにカリエールの肖像画とロダンの肖像彫刻は、リテラルにも表現形式的にも良く似ている。しかしカリエールがロダンのように造るもの(作者)と造られるもの(作品)との緊張関係、作者と作品の相互陥入的な造形原理にまで関心が及んでいたかには疑問が残るところだ。
とは言えカリエールにも自覚的なところがないわけではない。彫刻を作る彫刻家を主題とした作品では、彫刻と彫刻家それぞれを有機的な筆致で一体的に描き出し、作者と作品を同時に分離して描くことの可能性/不可能性を露呈していた(このテの作品、表象を表象することの起源は、レンブラントの≪トゥルプ博士の解剖学講義≫、またはカラヴァッジョの≪メドゥーサ≫に求められる)。とにもかくにも本展は、これまでまともに焦点を当てられなかった画家カリエールをじっくり鑑賞する良い機会だった。ロダンとの親近性も実感できた。その意味では非常に有意義な展覧会であったと思う。が・・・やっぱりロダンの方が一枚も二枚も格上だという印象を強くする結果となったことは言うまでもない。そういや以前モネとモリゾの展覧会なんてのも、どこかであったなぁ。
※ 地透層:下地の吸収調整として施される第一層。主に有色で、有色下地とも言われる。
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展覧会情報
http://krupa.exblog.jp/3595891/
2006-05-11T21:05:00+09:00
2006-06-06T22:55:36+09:00
2006-05-11T21:05:14+09:00
krupa
NEWS
Wake up. Black. Bear.
SATOSHI HASHIMOTO EXIHIBITION
(2005 ART STUDIUM 最優秀作家賞 受賞作家)
http://correlative.org/exhibition/2006/workshop/hashimoto/top.html
■作家 : 橋本聡
■会期 : 2006年5月6日─14日
■開場時間 : 11時─19時(金・土曜:11時─20時)
■主催 : 四谷アート・ステュディウム
■会場 :
GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE
〒160-0004 東京都新宿区四谷1-5
(JR四谷駅徒歩3分)
Tel : 03-3351-0591 Fax : 03-3353-7300
http://correlative.org/index.html
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ザハ・ハディドとめぐるドイツ銀行コレクション展
http://krupa.exblog.jp/3593032/
2006-05-11T00:02:00+09:00
2006-09-25T00:24:30+09:00
2006-05-11T00:02:59+09:00
krupa
展評
確かに豪華な顔ぶれではあるものの、美術館の規模からか「カルティエ現代美術財団コレクション展」に比べるとドローイング中心、小品中心の感はいなめない。しかしながら、その作家ラインナップから言えば、90~00年代の現代美術を概観するという意味で「カルティエ現代美術財団コレクション展」を補完する展覧会であると言える。中でもウィリアム・ケントリッジのデッサンは、「カルティエ現代美術財団コレクション展」に出品されていた彼の映像作品≪ステレオスコープ≫と連関を成していて面白い。木炭デッサンという単一のメディアのなかに多様な形式を包含する彼のデッサンは、≪ステレオスコープ≫を見た後なだけに一層、彼の映像作品さながらの「形式と形式がモーフィングするような」豊かさを感じることができた。
ところで展覧会の内容とは全然関係ないところだが、本展を見て僕は額の意義について改めて考えさせられた。最近の作家は額をつけない。台座のない彫刻・額のない絵画が浸透して久しいが、そもそもなぜ最近の作家は額をつけないのだろうか?果たして額をつけないことの意味を真剣に考えているのだろうか?本展ではネオ・ラウッフの絵画に始まり、ドローイングはもちろん大判の写真作品もすべて額装されている。現代美術の展覧会には珍しく(?)本展では額装された作品がほとんどだった。
かく言う僕も作品には額をつけない。なぜなら額をつけることでメディアの性質を隠蔽したくないからである。それはノイエ・ザッハリヒカイトやアンリ・カルティエ=ブレッソンらストレート・フォトの作家たちが写真をカットせずに現像したままの写真をプレゼンテーションしたことと似ている。絵画のボディ、つまり下地の素材や下地材の成分・含有量、絵具の厚みや積層の仕方が最も顕著に現れるのが絵画の縁である。絵画においての縁は単にコンテンツの終わりを意味するだけでなく、それ自体のコード、つまりメディア性そのものも体言している。だから僕は額をつけない。
こういうポリシー(?)を持っていると、最近の作家の額をつけないことをファッションにして、商品価値を高めるためにサイドの処理にやたら凝っている「フラットコンシャスな」作品を見ると、「こいつ何のために額を外しているんだろう」と思う。物理的な額を取り外せば、すぐさま絵画が周囲の空間に展開していくというわけでは決してない(ましてや額を取り外しながら、額の機能を代替するような処理を施す絵画など「現代的」でも「進歩的」でも「絵画的」ですらない)。「サイト・スペシフィック」という語がそもそも「いかなる空間(美術館という展示空間)にも依存しない自律性」を意味することを考えれば、絵画もまた形式上の額のあるなしだけを問題とするのは見当違いも甚だしい。先人の語を借りれば「神は細部に宿る」のだから。]]>
ブライアン・イーノ Brian Eno
http://krupa.exblog.jp/3424106/
2006-04-01T23:57:00+09:00
2006-06-06T22:53:13+09:00
2006-04-01T23:57:40+09:00
krupa
展評
ところでartscapeで、五十嵐太郎は表参道ヒルズを次のように批評している。
「スロープの勾配は、表参道の坂道とほぼ同じである。つまり、スロープは、延長され、内部化されたもうひとつの表参道なのだ。かつて安藤が賞賛したモスクワのグム百貨店のように、建築の内部に坂を引き込み、街路を抱え込んだ都市的な風景をもつ。(・・・)表参道ヒルズは、ブランド建築とは違い、長く残る覚悟でつくられた建築だろう。ゆえに、将来は思わぬ使われ方がされるかもしれない。例えば、スパイラル・スロープ沿いの部屋に人が居住する空間が発生したり、もっと多様なお店やギャラリーが入ることを夢想する。そうすれば、本当の意味でストリート化していく。(・・・)表参道ヒルズも、まだまだ未知の可能性を秘めた強度ある建築ではないだろうか。」
この建築批評のオチとして彼は「ストリート化(雑居化)」を挙げている。しかし雑居性というものが現代建築において果たしてどんな意味があるのかについては触れられていない。
このような雑居性、または雑種性は、しばしば現代を批評するタームとして用いられ、またモダンな規格化に対抗する正当な価値として認められている。しかしながら、なんでもかんでも雑種性の徴候を読み取って、現代的たるとするのはいかがなものか。表参道ヒルズに関して言えば、僕にはスタイリッシュなブランドビルにしか映らない。たしかに二本の坂道に面しているという特性を充分に配慮した造りになっていることは確かだが、そこに建築的野心は感じられなかった(それだけこの建築物が違和感のない、文字通り「透明な」建築であるということである。このような「透明建築」は、金沢21世紀美術館を代表に乱立の様相を呈している)。
表参道ヒルズを抜け、ラフォーレ・ミュージアム原宿へ。ブライアン・イーノ≪77 Million Pictures≫は、複数のイメージをランダムに混交させ、雑種のイメージを創出するものである。文脈を超えて重ね合わされたイメージは、それなりの強度を備えていた。強度をスピードと置き換えてもいい。ブライアン・イーノはアンビエントの発明者として良く知られているが、アンビエントの大家よろしくイメージの移り変わりはゆっくりとしたものである。しかしそのイメージひとつひとつは、複数の階層を越えて交錯するスピード感に満ちている(この感覚はリヒターの≪Oil on photo≫に通じる)。
しかし、このイメージのスピードには留意が必要である。イメージのスピードは、イメージの混交、その雑種性によって生じる階層のズレのことである。イーノの≪77 Million Pictures≫は、階層のレベル差(落差)において一定の強度を確保しているが、残念ながらその重ね合わせの方法がランダム、つまりフィードバックがないばかりに、あまりにも「透明な」重ね合わせなのである。イメージのゼロ度、つまり階層のレベル差自体を表出しようとしたのは前述のリヒターだが、リヒター以後の絵画として≪77 Million Pictures≫はあまりにもリテラルに感じられた。
イメージの雑種性、またはストリート化という意味での雑居性が、このような単なる重ね合わせを意味するのだとしたらそれはあまりにも脆弱すぎるだろう。五十嵐氏が評するように、表参道ヒルズ内に居住する空間が発生したり、雑多な店舗が並んだりすることは予想される。しかしそれは単なる雑居であり、大きなハコにでたらめにモノを投げ込んでいるに過ぎない。≪77 Million Pictures≫も同様に、強固な枠が設定されるなかで、その諸相が77 Million通り移り変わるだけでは、それは「透明な」モノローグに過ぎないのではないか。
他方、「ベルリン―東京、東京―ベルリン展」で見たシュヴィッタース、また村山知義ら「マヴォ」の活動は、断片の接合がダイナミックなシステムの刷新を主張する点で、現代のアイコンとして定着しつつある雑種性に強烈な異議をつきつけているように感じられた。それらは時代の特異点として、またそれだけに時代のメルクマールとして突出している。 ]]>
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